秋山 徳蔵の名言 Tokuzo Akiyama
料理を修業する者は(他の技術、芸術でもそうであろうが)決して不器用を嘆いてはならない。
不器用なものが、懸命に魂を打ち込んで、ジリッジリッと上がってきた、こういう人には、器用一方の人は必ず押されてしまう。
そんな人のつくったものには、底光りのする何かがある。滋味がある。
だから、妙に人をひきつけるのだ。
秋山 徳蔵 Tokuzo Akiyama
明治〜昭和時代の日本の料理人「天皇の料理番」1888〜1974
Wikipedia(日本語)/ Wikipedia(英語)
器用さはもちろん大きな武器になります。
しかし器用な人は、その器用さ故に愚直に追求することを軽視してしまうことが多くなります。
これでは壁に遭遇して、必ず行き詰まってしまうことになります。
不器用なことは、とかく良くないことだと考えられる傾向にありますが、不器用さも器用さ同様に間違いなく大きな武器になります。
もちろん不器用だからと自分自身で卑下してしまっては、良く言われる状態と同じことになってしまいますが、それだけ充分に時間をかけられることはエネルギーを込められることになりますから、とても素晴らしいことだと感じることですね。
最終的に創造した愛を届けて大切な人の幸せを実現していく時には、表面的な器用さなどが届いていくものではありません。
そこにどれだけ愛のエネルギーを込められたかで、心の届く領域が違ってきます。
器用であっても不器用であっても、本質に向けた才能や愛の磨き込みや、本来の夢の実現には、いずれにしても薄皮を一枚ずつ剥がしていくような積み重ねが必要不可欠なことになります。
自然に沿って洗練させていくことは、極みのない自然界の磨きこみは、そういうものですね。
自然界の追求は、どこかにたどり着けばそれで終わりというものではありません。
どこまでも進んで行ける道で、タイムアップを迎えるまでどこまでたどり着けるかが自然界の人生です。
ぜひ持ち味を最大に発揮して、より遠くまでたどり着いてください。
どれだけ早く到達するかではありません。
どれだけ遠くまで、高くまで、深くまでたどり着けるかです。
そのためには、器用でも不器用でも一歩一歩を確実に止めることなく刻んでいくしかありませんね。
これまでに紹介した秋山 徳蔵さんの名言です。
(浜本 哲治)
大正2年(1913年)宮内省大膳寮厨司長に就任した頃の秋山徳蔵(就任は同年11月で、それに先立ち同年7月に結婚し、秋山家の婿養子となった Wikipediaより