板倉 聖宣の名言 Kiyonobu Itakura
多くの若者を見ていると「妥協したくない」ことが先行して、少し困難にでくわすとすぐに理想を捨ててしまうことが多いようです。
理想を捨ててしまえば妥協もなにもなくなってしまいます。
問題は妥協しても理想を捨てないことなのです。
板倉 聖宣 Kiyonobu Itakura
教育学者「仮説実験授業」の提唱者 理学博士 1930〜2018
これは若者に限らず、人間界のあらゆる年代で見られる傾向でしょう。
特に知識や経験が多くなっていくほど、この傾向が強くなっていきます。
本来無限に可能性があり、どんな夢であっても才能、能力であっても、どこまでも果てしなく追求できる余地があるのが自然界なのですが、人間は自らその可能性を狭めてしまっています。これはほんとうにもったいないことです。
理想は実現できないから理想である。という言葉が妥協する言い訳に使われることが多くなっていますが、本来この意味は、無限の可能性のある自然界では、理想は果てしなく高くしていくことができるものですから、そういう意味で常に今すぐには実現できないところにあるものが理想であるということです。
イメージできる理想を、今実現できないからといって捨ててしまったり、低くしてしまっては全く意味のないことになってしまいます。
夢や理想の本来的な意義は、それに向かってチャレンジして、少しでも自分自身を高めていくことであって、決して実現することに真価があるわけではありません。
自然界では夢や理想へのチャレンジは、可能性をひとつずつ潰していく作業になりますから、上手くいかないことの方が圧倒的に多くなります。
ただひとつの可能性を潰す作業が、可能性が小さく、少なくなる作業ではないことを心得ておく必要があります。
無限に可能性のある自然界では、ひとつの可能性を潰す作業で、その可能性の先に必ず新たな可能性が数多く見えてくるものです。
そうなると可能性を試してみることは、可能性を広げることになることだということになります。
これが自然界の自然です。
妥協はする必要ありません。
理想を手放すことも、低くすることもありません。
むしろ手放すことを覚えるのであれば、思考を手放すことを体得した方がいいでしょう。
理想を手放すことができるのであれば、思考を手放すこともほぼ同じ原理ですから簡単なことです。
思考を手放していくことで、才能、能力が発露していき、可能性はますます広がることにもなりますからね。
(浜本哲治)
板倉聖宣の博士号学位記 Wikipediaより